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執筆者の写真フラタニティ 合同会社

文明を上げる

更新日:2月18日

以下の文章は、二〇二四年元旦に社内向けに発信された「年頭所感」です。


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「年頭所感」は、社員の皆様に向けた年頭挨拶に代え、

代表が事業運営における基本姿勢ならびに個人の所感について記した文書です。

三つのことばから得たインサイトから、我々の事業と生命の意義について考察します。

 

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“自己とは何そや 是れ人世の根本的問題なり”

日本の哲学者・清沢満之が記した『臘扇記 第一号』に、こんな言葉がありました。齢三十五、すでに当時不治の病といわれた結核を患った清沢は、自分の思い通りに生きることがままならない状況のなか『臘扇記(ろうせんき)』という日記に、こう記しました。

“臘扇”とは、「冬の扇」。つまり、役に立たないもの、無用なものという意味です。

世間からは疎まれ、役に立たない厄介者という扱いを受けながら、清沢は、あらためて自らの生命の意義をみつめ、問い続けたのでしょう。


私たちの社会は、人がその生涯において何を成し遂げたかによってその価値が決まる、成果主義的社会です。したがって、「あなたは何ができますか?」と常に問われ、自分にできることは何か?自分は何を成し遂げたのか?と、自分に問いかけずにはいられません。

しかし、自分の存在意味への問いは、ややもすれば「自分は生きていていいのか?」という、存在資格そのものへの問いに続きます。それほど危険なことなので、たいていの人間は、こうした自分との対話を嫌います。自分の内に発した火花が炎となることを察すると、すぐに「考えすぎだ」とか「無意味だ」とか「関係ない」とか、そういった当事者意識を放擲する態度を好むのです。しかし、それは本当に考えすぎで、あるいは無意味で、またあるいは関係ないことなのでしょうか。本当に?


 

“人間と動物を分かつ唯一のものは、言葉である。”

こちらは、幻冬社の見城徹社長の珠玉の名言です。彼の言うとおり、人は言葉で思考し、言葉で関係を切り結び、社会と文明をここまで発展させてきました。逆に言えば、言葉を獲得せず、思考しなければ、それは人間の仕事を果たしていないということであると見城社長は記しています。私は、この意見に完全に同意します。たしかに自分と向き合う(対峙)ことは大変に辛いことでもあります。私も経験がありますから、それは間違いありません。しかし、どれだけ苦しかろうが、その問いから逃げるという行為は、卑怯で、劣弱で、極めて自己中心的な態度だと私は思えてならないのです。

 

己という人間が、一体どのように役に立つのか。そもそも自分というものは何なのか。

かつてこの惑星の土を踏んだ一千億以上の人間が未だ答えを出せずにいるこの問いには、それでも現代生きる我々が次の文明へシフトするために、向き合う意味があると思います。火も電気も都市もスマートフォンも、もとを辿れば言葉による「問い」の産物です。ならば、AIも宇宙開発も他の惑星への移住計画も、人間の問いから生まれるに違いありません。

つまり「問い」は、文明を向上させる根源的な「蝶のはばたき」であるのです。

 


では、私は、何ができるのでしょうか。その答えは、私の場合、金融教育でした。

では、わたしたちの仕事(金融教育)とは、一体何なのでしょうか。

 


究極、それは「問うこと」だと思います。

第一に、金融というひとつのフィルターを通して考える材料(情報)を授けること。そして第二に、金融そのものでなく、個人の人生とのつながりを意識させ、人生設計という観点から「あなたの幸福のために、あなたはどうする?」と問うこと。このように“良質な問い”を授けてまわるのが、私たちの仕事です。

 

良質な問いを授けることは、優れた人間にしかできません。何を言うかより、誰が言うか。小物や弱者の言葉に、本質的に人は耳を傾けないのです。何が言いたいか、もうお分かりかと思います。ゆえに私たちは、人一倍に言葉を獲得し、自らに対して良質な問いを与え、卓越した存在(エクセレンス)であり続ける必要があるのです。

 

卓越した存在が集う会社の売上が振るわない。こんなことが、あっていいはずがないのです。だからこそ、私たちは人間的にだけでなく、経済主体として成功し、世の光となる以外に道はないのです。成功とは、普通でなく好ましい状態のことを言うそうです。我々は、金が欲しいから、名誉が欲しいから、この仕事をしているのではありません。そんなものは豚にでも食わせておけばいい。我々は、ただ一心に、文明の発展に寄与するために、最善を尽くすのです。そのあらわれ(結果)として、金融教育があり、個人の経済的平和があり、幸福度の上昇があり、国家の発展があるのです。結果として、利益や尊敬が当然に得られ、明日も事業を行うだけの経費を支払うことができるのです。こんな会社が、潰れてたまるかと私は声を大にして言いたい。仮にわたしたちの会社が淘汰される世があったとして、そこに暮らすのはどんな人間たちでしょうか?私は、死んでもそんな世界に住みたくはありません。

 

 

“私たちは、「構造」によって支配されている。”

最後は、構造主義を唱えた哲学者レヴィ=ストロースの言葉です。“構造”とは、端的に言えば、人間を創った存在が人間に埋め込んだプログラムのことです。難しいので例をあげると、例えば「近親相姦」を禁止しているのは、子の遺伝子が弱体化するからではなく、部族間の女性の交換が停止することで片方の部族が滅び、人類総体としての発展の可能性が失われるからである、というのが構造主義における主張です。ここでは社会の交換システムの保護という文脈で近親相姦と“構造”が語られていますが、要するに人間は、「総体として発展するように創られている」のです。私これを読んだとき、次のように考えました。

 

結局のところ、人間は文明を上げるという目的のために存在している。

地球上では、善と悪、破壊と再生、戦争と平和、両極端の営みが、それぞれの領域に正規分布するといわれる人間によって行われていますが、結局はそれら全てが、人類や地球という枠組みを超えた「文明を上げる」という“構造”、すなわちグランド・ミッションに従っているに過ぎないのではないか、と。

 

ともすれば、「良くも悪くも構造に支配されている存在なら、まあ、そこまでガチ(原理原則中心)になんなくてもいいっしょ(とにかく自分が良いのが大事だし、好き勝手自由に振る舞えばいい)」という反論も自然です。しかし、私は強く問いたい。

 


あなたは、誰のおかげで、いまを生きているのかと。

先人が築いた文明と、彼らの生命、人生、技術や経済的発展の上で、幸運にも生きることを許された存在なのではないのかと。何百何千億の血と汗と涙と努力の上に、ようやく今存在しうるあなたが、現代において賛美される「多様性」や「個性」という薄っぺらい価値観を根拠に、「文明を上げる」という壮大で不変のグランド・ミッション(“構造”)に無関係であるという態度をとることが「正しい生き方なのだ」と、血を流した先人たちを前に、胸を張って言えるのかと。本当に言えるのか、と。

 

私は、それを決して正しいとは思いません。それは原理原則に反する態度です。

原理原則に反する思想や行動は、たとえ社会が歓迎しようとも、私は断固として否定したい。

自分の経験や、深い思考といった痛みを伴うことなく、ただ社会が用意した体の良い言葉を都合よく解釈し、その上に胡座をかく人間など、生きている価値がないとすら思います。

そんなことでは、いつまで経っても社会が良くならない。文明が上がらない。

しかし、彼らを糾弾するだけでは、これもまた文明は上がらないということも事実です。

 


そこで、我々フラタニティ(友愛)の存在があるわけです。

我々には、彼らを「導く」という社会的な役割がある。我々の仕事は、「良質な問い」を授けてまわることだと先に述べました。個人が内在する幸福について思いをめぐらせ、それと切っても切り離せない「お金」による余計なストレスを軽減させうる機会を創ること。その営みの全てを以て、社会の幸福の総量を増やし、文明を上げることが我々の社会的使命です。

 

彼らとて、本質的に利己的に振る舞っているわけではない、というのが私の持論です。

なぜなら私たちも彼らも同じ人類であり、人類は須く“構造”に支配されている。つまり私たちも彼らも、同じグランド・ミッションを担っていると考えているからです。

では、その差は一体何から生まれるのか。

それは、「問い」の頻度と深度です。だからこそ、まだ弱冠三十の我々は常に己を向上させ、その力を以て個人に良質な問いを授け、長い長い時間をかけて、自分たちが生まれてくる前よりも、少しでも社会と文明を発展させることに寄与するべきではないでしょうか。

 

 

とどのつまり、原理原則主義は正しい、ということです。

良心、これもまた“構造”のひとつです。人に親切にする。誰かを幸福にするために一生懸命働く。そうした営みの集合体が、時間をかけて少しずつ文明を上げていく。そうして近いうち、人類の生活圏は宇宙にまで広がり、新しい叡智を作り上げていくはずです。

 

私が何と言おうと、あなたが何と言おうと、原理原則や構造には抗うことはできません。

ならば、最初から「文明を上げる」ことをゴールに定め、残りの人生を生きてみませんか。

原理原則という不変の基準に照らして、瞬間の思考や行動を選択してみませんか。

 

正面から己や社会と向き合い、試行錯誤し、葛藤し、傷つき、喜ぶ。

そんな生き方を選んだのは他でもない自分自身だと心得て精一杯に生き、その壮大なグランド・ミッションの道の途中で年老いて、ともに死んでいきませんか。

 

息絶える間際、自分の人生は正しかったと、強い幸福感を感じながら。


なぜなら、わたしは、原理原則に従って生きたのだから。と。

 

 

 

二〇二四年 一月 一日

未明 記

 

合同会社フラタニティ

代表社員 兼 最高経営責任者

大成 裕道


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*参考文献*

『臘扇記 第一号』清沢満之(『清沢満之全集』第八巻 岩波書店, 『読書という荒野』見城徹 幻冬社, 『親族の基本構造(福井和美 訳)』クロード・レヴィ=ストロース 青弓社, 『野生の思考』クロード・レヴィ=ストロース みすず書房, 『百年の愚行 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY』 池澤 夏樹/アッバス・キアロスタミ/フリーマン・ダイソン/鄭 義/クロード・レヴィ=ストロース/小崎 哲哉, 『Newton』第37巻 第10号(文明のレベルを分類する「カルダシェフ・スケール」)ニュートンプレス社(2017年7月 35頁), 『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』スティーブン・R・コヴィー キングベアー出版, 大谷大学HP『教員エッセイ-今日のことば(2017年10月)』

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